2019年


ーーー10/1−−− タイルを修理


 
数年前から、風呂場の床のタイルが、剥がれだした。排水口の角型の枡の周囲から、タイルの裏側に水が浸みこんだのが、事の発端と思われる。その部分から次第に周囲へと広がっていった。被害が軽いうちに補修すれば良かったのだが、先延ばしにするうちに剥がれたタイルは10枚となり、20枚を越え、ついに26枚となった。

 ようやく重い腰を上げ、補修することになった。まずやり方をネットで調べた。下地のコンクリートと再利用するタイルに残った接着剤を、綺麗に除去することが大切だと書いてあった。確かに、タイルの裏面には、ぶ厚く接着剤がこびりついている。しかしそれは固いものではなく、掻けば取れるようなものだったので、ワイヤーブラシで擦って取り除くことができた。水が浸み込んで劣化し、このように軟らかくなったのか? とにかくこんなに軟化していては剥がれても当然だ。

 タイルは綺麗にしたものの、半数近くは割れたりして既に無くなっている。12枚を新たに購入しなければならない。それを手に入れるのが、結構難儀だった。

 タイルなどホームセンターへ行けばいくらでもあるだろうと思っていた。しかし、この地域の二つのホームセンターは、いずれもタイルを置いてなかった。多種多様なタイルを、まとまった数量で在庫することは、ホームセンターの商売にはそぐわないのかと想像した。

 ネットで調べてみた。こちらも、なかなか希望するサイズのものが無かった。あっても、購入できる数量が100枚単位だったりして、ニーズに合わなかった。ようやくあるタイル屋の放出品の中に、ほぼ希望するサイズのものが見付かった。36枚セットで130円と、これはまた極端に安かった。

 他に、接着に使うモルタルを注文した。これは接着剤と目地剤を兼用しているという代物である。施工が簡便だろうと思ったから決めたのだが、何故一般的には目地剤を別に使うのかという疑問は残る。

 施工する面が濡れていては具合が悪かろうと、下地をヘヤードライヤーで乾かし、それでも部分的に水分がしみ出てくるので、扇風機を半日当てっぱなしにして万全を期した。しかし、届いた接着剤の説明書を見たら、モルタル系なので施工面は濡れ雑巾などで湿らした方が良いと書いてあった。

 実際の施工は、おおむね順調に運んだ。購入したタイルの色が若干違うので、なるべくデザイン的になるように配置を考えた。真夏の気温だと、接着剤の乾燥が速くて施工を急がねばならないようだが、その日はさほど暑くなく、落ち着いて作業が出来た。30分ほどで終了。

 しかし、すぐに風呂場を使えるわけではない。説明書には60分で硬化と書いてあったが、チェックしてみると、完全には固まってないようだった。そこで、安全を見て、二日間養生することに決めた。その間は、もう一つの風呂場を使えばよい。我が家は二世帯住宅の構造なので、こういう時は都合が良い。

 画像は補修前と補修後。素人の施工だが、そこそこ綺麗に出来上がった。風呂場を使うたびに目が行き、嫌な気持ちになっていた事がようやく解消されて、嬉しい気持ちになった。

 

 

 




ーーー10/8−−− スマホを買い替え   


 昨年あたりから、スマホの調子が悪くなってきた。故障ではないのだが、機種が古いために、いろいろなアプリに対応できなくなってきたのだ。つい最近は、LINEが使えなくなった。LINEのサイトからアップグレードすることを要求されたが、このスマホではバージョンが古くて、その操作を受け付けなかった。そこでついに、機種変更をすることにした。

 以前利用した大手のスマホショップに出掛けたら、店内はガランとしていた。ところが接遇に立った店員は、予約が混んでいるので、商談に応じられるのは早くて10日後だと言った。そこで、ちょっと遠いが、同じ系列の別の店を探し出して電話を入れた。やはり予約制だったが、6日後が取れた。

 当日店に入ると、やり手そうな若い女性店員が、きびきびと対応してくれた。これまで使ってきたスマホを見せると、ちょっと驚いたような顔になって「けっこう古いですね」と言った。調べて貰ったら7年半前に購入したものだった。「一つの機種を5年以上使われているケースは珍しいです」と。

 機種変更に当たってこちらが示した要望は、とにかく安価なこと。電話とLINEと、ちょっとした調べものくらいにしか使わないから、高度な機能は必要ない。売れ筋の高級機種の半額以下のものに的を絞った。

 機種が決まり、細かい契約手続きをした。提示された月々の利用料金は、現行よりだいぶ安くなった。理由を聞いたが、よく分からない。またスマホ本体の価格も、なんだかんだで定価の三分の一くらいに下がった。これも理由はよく分からない。後で人に聞いたら、格安のスマホが出回っているので、それに対抗して大手も価格を下げたり、サービスを増やしたりしているのだと。

 買って帰っていじってみたら、同じメーカーのものとはいえ、操作方法が違っているので、しばらくの間イライラに苛まれた。しかし慣れてくると、やはり新機種は便利だった。当然のことだが、これまで使えなかったアプリがガンガン使える。またバッテリーの持ちが良く、しょっちゅう電池残量を気にしていた前機種とはえらい違いだ。料金のことも含め、何故もっと早く買い換えなかったのかと、悔やまれた。

 スマホの便利さについて、今さら私などが述べるのも興ざめだろう。しかし最も基本的な電話機能にしたって、私が若かった頃、今から40年ほど前には、個人が無線で通話をするなどという事は、特別な資格とそれなりの装置を持った、ごく小数の人に限られた。電話をするのは、電話機がある場所に行かなければならなかったのである。それが今では、いつでも何処でも誰とでも、思い通りに電話が出来る。しかも、相手の映像を見ながら話すことも可能だ。

 科学と工業技術の発達と言ってしまえばそれまでだが、本当にこんな事で良いのかと、漠然とした不安と恐れを感じることもある。




ーーー10/15−−− 闇夜のマツタケ採り


 
強力なヘッドランプを購入した。マツタケ採りのためである。ヘッドランプは、これまで登山用に購入したものをいくつか持っているが、明るさが全く違う。これくらい強力なものでなければ使えないということを、以前ベテランに連れられて深夜のマツタケ採りに行った時に知った。

 何故暗いうちに山に入るのか? 他の人が立ち入らない山であれば、昼だろうが、夕方だろうが構わない。問題は、競争相手がいる場合である。マツタケ採りのベテランはこう言う 「1時間早く誰かが入っていれば、全部採られちゃうよ」。ヘッドランプを使ってまで早い時間に入るのは、他人の先を越すためなのである。

 先を越すというのは、マツタケを独り占めしたいという目的ばかりではない。マツタケが実際に出現しているかどうか確認するという意味もある。マツタケはかなりデリケートなキノコであり、気候などの条件によって出現が左右される。同じ場所に、毎年必ず出るとは限らない。山に入って、マツタケが見付からない場合、条件が悪くて出ていないのか、それとも誰かに採られてしまって無いのか、見極める必要がある。それで、他人の先を越して山に入るのである。

 ところで、「一人で真っ暗な山の中に入るのは怖くないですか?」と、以前同行したベテランに聞いたことがある。返事は「ぜんぜん」だった。

 私は登山の経験は長いが、夜中の山中を歩いた経験はほとんど無い。登山は明るい時間帯に行うのが基本である。早立ちすることはあっても、せいぜい夜が白む頃の時間である。単独で夜の山を歩いたのは、人生で一回しか経験が無い。若い頃に行った奥秩父縦走のときだけである。そのときは意図して夕方から山に入り、3時間ほど森林の中を登ってから、山中で野営をした。夜の山は真っ暗で、不気味で怖かった。そんな事をしてみたい年頃だったのである。

 ヘッドランプを灯してマツタケ山に入った。周囲は完全な暗闇である。ランプの光が、森の木立の奥に吸い込まれるように消える。不思議なことに、恐怖感は無い。この年齢になると、感受性が鈍くなって、余計な感情が沸かないのだろうか。

 山の高い所に上がると、安曇平の夜景が綺麗だった。2時間ほどたつと、東の空が白んできた。そして陽が上り、森の中が明るくなってくる。ついに地面がはっきり見えるようになり、ランプを消した。標高1000メートルに満たない里山でも、夜明けは荘厳である。非日常の体験は新鮮だった。




ーーー10/22−−− 老いてチャレンジ


 50台の頃、年に数回お世話になっていた鍼灸院の先生は70歳前後の年齢だったが、私が「さいきん心身ともに衰えを感じます」と言うと、「まだまだ序の口ですよ。60歳を過ぎれば、衰え方はそんなものじゃありません」と答えた。その60台も半ばを過ぎた現在の私である。

 先生の予言は当たったか?。もちろん当たっている部分は多いが、全てその通りとは言えない気もする。的中率は6割くらいか。

 当たっていると感じるのは、体力と記憶力。これらは確実に低下している。裏山登りのタイムで体力レベルを評価するなら、数年前の状態に戻すのはもはや不可能と思われる。また、記憶力は、新たなものを憶えられないばかりでなく、既に持っていた知識もどんどん消えていく。人の名前が思い出せず、失礼なことをしそうで、心配になることがあるくらいである。

 反対に、けっこう衰えない、むしろ進歩していると感じるのが、細かい加工をする能力など、繰り返しによって身に着く技能である。上達のスピードは、若い頃と比べると遅いかも知れないが、これまで出来なかったことが出来るようになると、いまだに進歩しているという実感が湧く。

 技能の進歩は仕事の面で感じるものだが、他の分野でも進歩を覚えることがある。たとえば楽器の練習。二年前にチャランゴという楽器をはじめた。日々練習をしているのだが、その成果は少しずつではあるが、確実にある。これは、若い頃はやっていなかったので、比べることはできないが、進歩しているという実感は、正直に嬉しい。

 こう考えると、歳をとってから新しい事にチャレンジするというのは、衰えの失望に対抗する良い方策かも知れない。そのチャレンジも、体力的なものや頭脳的なものよりは、繰り返しの練習を伴う手の技、技能のようなものが良いように思う。そういうものは、確実に進歩するし、若い頃やっていないジャンルであれば、比べてがっかりすることも無い。

 鍼灸の先生は、かつてこんな事を言った、「人間の体は、何歳になっても回復力があり、より良い状態にする能力があるのです。それはつまり、生きているということなのです」

 さらに付け加えるなら、こんな話もあった。年配者が集まったある席で、ある若い指導者が語った言葉 「新たなことにチャレンジするということが、ボケ防止になります。この歳でチャレンジなんて無理だ、と諦めることが、老化の始まりです」




ーーー10/29−−− フォルクローレ教室の発表会


 
チャランゴを習っているフォルクローレ教室の、年に一回の発表会が開催された。出演したのは、生徒12人と先生。先生はギターで伴奏をする。生徒はほとんどが私と同程度か年配の方(と思われる)で、男女比率は、男性4人に対して女性が8人。女性のほうが男性より第二の人生の楽しみ方を心得ている、という実例のような集団である。

 朝8時半に、普段練習場となっているライブハウスに集合。楽器や機材を車に積み込んで、演奏会場へ移動。会場に入ってセッティング。それらの準備作業が終ると、リハーサル。演目を全て、プログラムに従ってさらう。先生から、最終的な細かいチェックが入る。そういうことを順番に進めていくうちに、なんだかとても本格的なことをやっているという実感が沸いてくる。

 昼食を取っているうちに、お客さんが入り始める。先生が生徒全員を楽屋に集め、本番に向けて檄を飛ばす。いわく「楽しんでやりましょう。緊張感やプレッシャーも、合わせて楽しむのです」

 入った観客は70名を少し越えるくらい。会場の席がほぼ一杯になったから、盛況と言って良いだろう。観客も、年配者が多かったように見受けられた。定刻になり、出演者一同が前に並んでご挨拶。それからプログラムに沿って演奏に入った。

 フォルクローレの演奏は、ケーナ、サンポーニャ、ギター、チャランゴ、ボンボなどの楽器による合奏が基本である。出演者は、入れ替わりながら演奏をする。ほとんどの人は、数種類の楽器を持ち替えて奏でる。経験年数を重ねた生徒が多く、かなり聞きごたえのある演奏が目立つ。

 入場料が無料の演奏会なので、観客のモチベーションは量りかねる部分がある。飽きたら帰ってしまう可能性もあるので、観客の心をつなぎ止める工夫が必要だ。演奏のレベルがそこそこ高くても、観客は馴染みが薄いジャンルの音楽には乗りにくい。だから演目の選定は大切で、順番も考慮しなければならない。合間のスピーチなども観客の心を引き付けるために重要である。そこら辺は、ディレクターである先生の、腕の見せ所である。

 私は三曲演奏した。一年がかりで取り組んできたレパートリーである。十分に練習を重ねたので、自信はあった。しかし、いざステージに立つと、自分の意思とは無関係に、指が震えた。

 どのような曲でも、流れの中でキモとなる部分がある。そういうところは、たいてい難しい。何百回練習をしても、なかなか完璧とならない。自宅の練習では90パーセントの出来でも、本番では激しくミスることもある。本番は、演奏に及ぼすいろいろな要素があるので、いつも通りには行かない。そこが素人の悲しさである。ある意味、上手く出来ないのは当然とも言える。だから、ミスした部分を気にするのではなく、上手く行った部分をラッキーに思うくらいで丁度良い。そこが、本番の演奏を楽しむポイントだと、最近気が付いた。その気持ちを、数分間の演奏の間、ちゃんと維持できるかどうかが問題だが。

 4時半に発表会は終了した。観客を見送り、機材を片付け、搬出し、ライブハウスに戻った。そして夕食を兼ねて打ち上げの宴を持った。一同は、演奏会の余韻が覚めやらぬ、いささかの興奮状態である。会場で来場者から回収したアンケートなどを見ながら、熱く語り、演奏会を振り返った。

 私がこの発表会に参加したのは、昨年に続き二回目である。経験が浅いのに言わせて貰うならば、実に得難いイベントである。楽しいばかりでなく、プレッシャーもある。思い通りの演奏が出来なくて、口惜しい気持ちになることもある。しかし、それを乗り越えられれば、喜びは言い尽くせない。いろいろな意味で、楽しく、嬉しく、不安で、辛く、それでいて興奮し、感動溢れる、長く充実した一日なのである。